
益子焼は、嘉永6年(1853年)笠間から益子の大塚平兵衛家へ婿養子として来た
啓三郎によってひらかれたといわれています。
当時の領主黒羽藩大関公の保護を受け、土瓶やゆきひらなど日常生活用品を焼き、
のちにいくつかの窯元で製作が行われるようになり、それらの品は特産品として
江戸に出荷されました。
当時の主な製品は、かめ、すり鉢、紅鉢・片口・行平・土釜・土鍋・土瓶などの庶民の
台所用品でした。
1957(昭和32)年に、信越線横川駅の「峠の釜めし」の弁当容器として需要も高まりました。
現在では窯元の数も380を数え、新しいものを目指す窯元も多いが、
益子焼本来の伝統を守っていこうと言う窯元もたくさんあります。
益子焼は切磋琢磨され、栃木県の工芸品として、より質の高いものとなっています。